2019-11-19 第200回国会 衆議院 法務委員会 第9号
二〇二四年から一万円札の肖像画になるというんですけれども、キャッシュレス化が進むので申しわけないなという感じもしなくはないんですが、いずれにしましても、百四十年以上も前に会社制度の有用性をフランスから学んで、約五百社もの会社をつくって、帝国ホテルとか王子製紙、東洋紡績など、その六割は今日に至っても形態を変えて存続しているということであって、資本主義の父などと言われるようであります。
二〇二四年から一万円札の肖像画になるというんですけれども、キャッシュレス化が進むので申しわけないなという感じもしなくはないんですが、いずれにしましても、百四十年以上も前に会社制度の有用性をフランスから学んで、約五百社もの会社をつくって、帝国ホテルとか王子製紙、東洋紡績など、その六割は今日に至っても形態を変えて存続しているということであって、資本主義の父などと言われるようであります。
特に、私の選挙区にあります高崎市の新町というところでありますが、富岡にありました世界遺産の富岡製糸場、これにも関係します官営の新町くず糸紡績所というものがありましたけれども、ここに高崎線という線路が通ることによって非常に大きく発展をいたしました。
自分たちは六十年前に、御所浦で仕事がないから、旦那さんは大阪に大工の見習で行って、奥さんは紡績工場に中卒で集団就職で行って、結婚して、そしてようやく定年退職で御所浦へ帰ってきたんですけれども、年をとってみたら、今度は、病院もベッドがあいていないし、老人ホームもベッドがない、また私たちは外に出ていくんですよと、笑いながらおっしゃっていましたけれども。
○参考人(茶谷寛信君) 私、実は愛知県の知多半島の出身でございまして、ここは紡績業が非常に盛んでございました。朝鮮戦争のときに特需というのがありまして、紡績が猛烈に稼働しまして日本経済の基盤を確立した、輸出とかによってされている中で、非常に多くの女性労働者が、中学を出たばかりの女性労働者がお見えになって働いていた。
この方の年金額につきましては、資料としてお手元に届けておりますが、高校を卒業し、大企業の紡績会社に就職、十八歳から六十歳定年まで四十一年間、厚生年金を掛けてこられました。この方の年金額は、何と月額十三万六千円です。お手元に年金記録の資料をつけております。ぜひ見ていただきたいと思います。 四百九十三月、四十一年の年金加入でこの年金額に山本さんは衝撃を受けたと述べています。
高機能の糸や繊維の紡績を行って海外に輸出する業界、あるいは、糸を第三国、中国などから輸入して織り上げて、そして日本でアパレル産業としていく、こうした三工程全てそろっていないという状況がある中で、我が国はヤーン・フォワード・ルールの採用には否定的な立場であったというふうに言われておりますが、今後、これが採用されたわけですから、国際社会の様々な経済連携における基準となっていく可能性もございます。
一昨年、富岡製糸場が世界遺産に登録されたことは記憶に新しいところでございますが、私の地元大阪も、この時期、綿糸の九割を生産をしたということで東洋のマンチェスターともうたわれ、紡績卸を含め繊維産業の上流から下流までを担って、大大阪と言われる時代を築き上げたその中核に繊維産業があったわけでございます。
○政府参考人(糟谷敏秀君) TPP協定の原産地規則におきましては、関税撤廃の対象となる繊維製品につきまして、毛糸、綿糸など使用される糸の紡績から始まってその後の生産まで、全ての工程をTPP域内で行うことを要件としているものがございます。
紡績運転の職種で技能実習を行ったベトナム人の技能実習生が、日本の繊維メーカーで専門技術と作業工程の管理方法を身に付け、帰国後に技術系の管理職に復職をし、後輩たちの教育を任された例というのがございます。
○宮川政府参考人 お尋ねの、制度趣旨に沿った海外への技能移転が果たされた具体的な事例でございますが、これは、公益財団法人国際研修協力機構が帰国した実習生の近況報告をまとめた事例集によりますれば、一つは、紡績運転の職種で技能実習を行ったベトナムの方が、日本の繊維メーカーで専門技術と作業工程の管理方法を身につけ、帰国後に、もとの会社の技術系の管理職に復職し、後輩たちの教育を任されているというような事例、
このうち、平成二十七年におけます技能実習二号への移行者数の多い順で見ていきますと、一番多いのは鋳造、鍛造のような機械・金属関係の職種、二番目は紡績運転のような繊維・衣服関係の職種、続いて建設関係の職種、それから食品製造関係の職種、農業関係の職種となってございます。
技能実習生の具体的な実習の内容の例でございますけれども、例えば、繊維・衣服関係の職種であります紡績運転職種、その中での、糸をよる合撚糸作業という実習では、業務用の糸のパッケージを材料にいたしまして、専用の機械を用いまして、二本以上の糸を引きそろえて均斉なよりをかけて強度の大きい糸や特殊な風合いの糸などの製作を行い、天然繊維あるいは化学繊維といった紡績糸などを製造している作業がございます。
私も行くまで知らなかったんですが、一九六一年に、あの日本のテロに倒れた浅沼稲次郎社会党の委員長を追悼する意味で浅沼稲次郎紡績工場と、浅沼稲次郎という名前を付けた工場が依然としてあるわけですね。そして、今も稼働している。キューバ東部のヒバラという地域ですけれどもね。そういうくらいの、日本に対する親日的なそういう関係もある。また、日本からの入植者といいますか、かなりおられるわけですね。
もともとそういう場所につくるのが当たり前であって、隣は紡績工場。これのどこが「幼児の教育上適切で、通園の際安全な環境」なのかと、私は非常に疑問に思うんですね。 きょうは国土交通省にも来ていただいております。これも確認したいと思うんですね。 もう一度資料四の議事録の二枚目に戻っていただきたい。
これは、日本の石綿紡績業というのが泉南地域で一九〇七年に始まったと伺っておりますが、この工場は、全国の八〇%が大阪の泉南地域というところに集中しているというふうに言われております。 一昨年、国賠訴訟、国家賠償の訴訟がございまして、国の責任が認められたということになりました。国は責任があるということになったわけですが、このアスベストによって引き起こされるがんが中皮腫というものでございます。
当時、アスベストの撚糸工場、紡績工場で、もうもうたる粉じんの中で仕事をしていた。朝、それが舞いおりて、窓をあけて、それを外に掃き出してから仕事をしていたというような、リアルな体験も伺いました。 この原告団また弁護団とも意見を重ね、政府に対しまして、被害者救済を最優先にすべきだと速やかな解決を求めてまいりました。
だから、例えばイノベーションというと難しく言うけれども、よく例に引くんですけれども、大阪紡績、今はなくなりまして、たしか東洋紡というのだと思いますが、世界で最初に最大のイノベーションをやったのは多分東洋紡だと、世界の経済産業の歴史を知っている人なら必ず言うんだと思います。 いとへんをやっていた会社ですけれども、この会社が世界で最初に工場の中に電気を採用したんです。
銀行協会もそうですし、紡績協会もそうですし、名古屋にありました陶磁器輸出協会も、京都にありました伝統工芸振興会も、全部東京へ集めたんですね。その次に、情報活動も許認可制で、テレビは東京でないと全国放送はできない。広島カープの放送も、広島球場でやっても東京のテレビ局が行かないとできないと。
それから二つ目の方は、後ほど大臣からもあるかもしれませんが、旧ソ連圏、CISの、特にスタン五つの国と言われている中央アジアの国について、確かに、これまで五つの国合わせまして四千億円強の融資をしているというところでございますけれども、ただ、現状を眺めてみますと、やはりどちらかというと紡績業といった古典的なものにやや集中をしておりましたけれども、実際の現地の状況を見ておりますと、天然ガスあるいはウランといったいろんな
日本でも一八九〇年代に入って企業福祉が広がり始め、一九〇五年には鐘淵紡績が我が国最初の共済組合を創設し、疾病、傷害、年金・死亡給付といった保険事業を開始しました。 その後、企業福祉の一部を政府が制度化する動きにつながり、一九一一年の工場法、一九二二年の健康保険法、一九三六年の退職積立金及び退職手当法が制定されました。
具体的には、カネボウと丸紅がウズベキスタン軽工業省、現在では軽工業公団になっておりますが、これと合弁で設立をした絹紡績製糸製造企業、シルクロード社というのがございます。一九九八年に設立をしまして、資本金二百万ドルでございました。従業員約四百名でございます。
これは、ざっと見ますと、それこそ、ウズベキスタン、ペルー、それぞれ今言ったように絹紡績と水産加工ということでありまして、どうも、この投資協定がねらっているような鉱物資源、両国の鉱物資源というようなお話がありましたが、鉱物資源についてJICAが投融資をするような分野というのは多分少ないのではないのかなと。
ペルーについては水産加工ということでありまして、またウズベキスタンについては絹紡績ということでの投資案件でありますが、それぞれ出資をした額、五千九百万円あるいは四千二百万円ということでありますが、キャピタルゲイン、ロス、減損、貸し倒れ償却額、評価差額、配当累計等では、それぞれマイナス五千九百万円とマイナス三千六百万円というふうになっているんですけれども、それぞれの出融資、これがどういうものであって、
岐阜県から私は来ましたけれども、紡績の町ですよ、昔。昔は女工という言葉がはやったんです。今はそんな言葉はもう消えました。専務員です。 ですから、昭和三十五年だと思うんですが、そこに施行された下請代金遅延防止法の名前を、やはり創造的な中小企業を育成するためにはネーミングを変えていただきたいというふうに私は提案を申し上げたいと思っているんです。たまたま私は上田でよかったと自分では思っております。
大阪府の泉南地域、ここは古くから石綿紡績業が発達した日本最大の生産地であります。小さな石綿工場が農地や住居に隣接してたくさん建てられていました。工場の窓は開けっ放しで、大きな扇風機で工場内の白い石綿の粉じんを外に出すと。工場の窓の下にはアスベストがたまっていて、風が吹くと綿毛のようにふわふわと揺れていた。それを毎日吸っていたわけですから、発症しない方が不思議であります。